「伊野尾担」になった人が考える担当論
ただの持論なので、軽く読み飛ばしていただけると良いかと思います。
突然だが、私は今まで伊野尾くんのことを「自担」と呼んだり、自らのことを進んで伊野尾担と名乗ったことがなかった。
それはおそらく周りの誰も気付かないような小さなことで、自己満足そのものである。
言ってみればそれは「違和感」から来るものだったのかもしれない。
私は今まで様々なアイドルグループを応援してきた。
そこは好きなアイドルのことを「推しメン」、自らのことを「◯◯推し」「◯◯オタク」などと呼ぶ世界で、そのことに対しては何の違和感もない。
しかし、いきなり飛び込んだジャニオタ世界の、好きなアイドルを「担当」と呼ぶ文化には、なぜか違和感を覚えてやまなかった。
「自担」と「推しメン」、この二つの言葉はほぼ同義語であると言えるが、ちょっとしたニュアンスの違いで、それが自分の中の気持ち悪さに繋がっていたのでは?と考える。
推しとは、私はこのアイドルを推したい!周りに、世間に、いろんな人に見てほしい知ってほしい!という気持ちから来るもので、言わば「アイドル中心」の呼び方だと考えられる。
しかし担当とは、「◯◯を担当している“私”」「“私”が担当しているのはこの人」といったような「自分中心」な呼び方に聞こえて仕方なかった。
それがこの事務所の文化なんだと言われればもっともだが、違う畑で育ち、いい歳こいて初めてこちら側に落ちた人間としては、どうしてもその微妙なニュアンス違いの気持ち悪さが拭えなかった。
そのことから私は、自分について説明する際には「伊野尾くんのファン」「伊野尾くんを推している」と言っていた。
そんな中、10月に初めてHey!Say!JUMPのコンサートに行った。
キラキラと輝く9人を目の当たりにし、とても幸せな気分になったのは言わずもがな。
そこには思っていたよりも伊野尾くんばかりを目で追って、一喜一憂する自分がいた。
かっこいい姿やかわいい仕草を見て喜んだと思ったら、遠くのトロッコに乗り笑顔を振りまく彼を見て、寂しいような、どこか悔しいような思いを抱いてしまった。
それは初めてに近い感情で、ああ、なんて面倒なんだろうと思った。
ここにいるだけで幸せ者なんだと自分でよくわかってるはずなのに、素直に楽しめない自分に嫌気がさしたりもした。
そんな思いを抱いたままコンサートが終わり、しばらくはその感情と葛藤した。以前よりも伊野尾くんのことしか考えられなくなっている自分。もはや病気である。同担拒否もリア恋も今なら理解できる気すらしていた。
ハマる前から薄々勘付いてはいたが、ジャニーズのアイドルは次元が違う。
それはオタクの手で「推す」ことにより成長していく地下ドルなどの比ではなく、もはや宗教に近い。自担は神様なのである。
顔がカッコいいとか、ギャップがカワイイとか、入信のキッカケは人それぞれ。我々オタクは、ただひたすらに神であるアイドルを崇め奉り、与えられる様々な授け物に有り難やと手を合わせるのだ。
自担とは神様のこと、これがジャニーズのアイドル担当論なのであると私は考えた。
とは言え、「神であるアイドルを担当している」なんて、人生かけてる感が凄すぎて普通に考えてみればドン引きものである。例え話にしても、宗教て。
しかし、これが重過ぎるなんてこれっぽっちも思わない。なぜなら私はもう、ここまで来てしまったからだ。伊野尾慧という名のアイドルに人生かけたいと思うところまで。
というわけで、私は自分のことを「伊野尾担」だと自覚したと同時に、徐々に「私は伊野尾担だ」と口にするようになった。これが異常にすんなりと。
うん、今すごく清々しい。ジャニオタとして完成された感、ある。
まあ、結局なにが言いたいのかというと、
伊野尾くんは神
つまりはそういうことなのである。
伊野尾くんを好きになってもうすぐ一年が経とうとしている。
あの日から、まるで人生が変わったように毎日が楽しくて、未来が輝いて見えた。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、私にとってそれくらい大きな出会いだったのは確かだ。
二年目も、自担のさらなる飛躍を願うと同時に、伊野尾担でよかったと思える瞬間がたくさん訪れますように。